染み着き

シミズマサト専用ワールドワイドウェブ。
音楽の活動予定・記録や、個人で営む製作店「南極」の紹介等を載せています。

染みの記の一覧ページ

今日も今日とて、昼間に電話の着信音が鳴る。N社のお得意さんだ。

「もしもし、◯◯です」
「お世話になります」
「いま作業中でしたか?」
「いまですか? いまはですね、どれだけ煮ても炊いてもふちが熱くならない鍋を『持つ鍋』として売り出してみるのはどうかということを、小半時ばかり考えていたところですワ」
「なるほどなるほど。取っ手もいいお考えですね」
「取っ手も… ワハハハ! で、いったいなんです?」
「昨日もらったデザインなんですが…

このような小粋なまわり道から仕事をはじめるのが労働者のたしなみというもの。この「昨日送ったデザインの話」はえげつない内容でここからハードな一日だったが、なんであろうが暮れない一日はない。いい糞が出そうだ。


なんだか今年は花粉症がかなりマシだ。ちゃんと鼻で呼吸出来ているので、例年の息苦しさ、寝苦しさもない。それはいいのだけど、鼻の穴に花粉が入ることで症状が出るあのイライラを「インカフンカフン!(花粉花粉)」と叫ぶことでいくらか鎮めるというばかばかしい対処療法をもう十年近く広めようとしているのだが、あまり成果があがらないままに自分のが治まってしまうかもしれない。それも運命(さだめ)か。


子どもが喜ぶので、ウインナーをタコさんにすることがある。

ウインナーの片側に切れ込みを入れて軽く茹でてやると、切れ込みを入れたところが広がってそこが足になる。これにより、完成された肉料理であるウインナーがタコになるというわけだ。

グレードダウンしているような気もするが、とにかく子どもが喜ぶのでこれでよい。僕だって子どもの頃はなんか嬉しかった気がする。ウインナーがタコになっていると。どうしてかはわからない。

ここでふと思った。確かにウインナーの片側はタコ足になったものの、逆側が手つかずだがこれはこのままでいいのだろうか。

そうして調べてみると出るわ出るわ。様々な工夫で目や口をつくり、タコ部分の面積を増やしてクオリティを上げようという試みが山のように出てくる。そうまでして完成された肉料理であるウインナーをタコにしようというのだ。どうしてかはわからない。

僕にわかってきたことは、タコさんはいざお弁当箱に詰めようとすると広がった足が場所を取って邪魔だということだ。電車の席に大股びらきで座る奴のことを思い出す。タコ野郎め。


昼めしを鍋焼きうどんにする利点が確立され過ぎていて(かんたん・はやい・おいしい)、この暑さだというのに毎日のように食べている。欠点(あせだく)ぐらいではびくともしない利点が鍋焼きにはあるのだ。土鍋の上で野菜の端を適当なサイズに切り落とし、適当な出汁を張って煮立てたら冷凍うどんを入れる。麺を茹でる必要もない。卵のひとつも落とせば栄養面も盤石。揺るぎない昼めし。


丸3年のあいだ配信を続けてきました、報道談笑歌謡ショー"染み抜き"の最終回が終わりました。20年近く前に購入したミキサーや、めったに使う機会がないケーブルなど、3年前に押入れから引っ張り出してきて配信に使ってきた機材。きれいに磨いて、次の出番が用意できるまでまた押入れに仕舞います。ご視聴いただいた皆様、ありがとうございました。アーカイブはまだMeleのYoutubeチャンネルにあるので、よかったらしがんでください。


僕はスーパーが好きだ。スーパーにはドラマがある。いつだったか、定年退職された旦那さんが時間を持て余して奥さんの買い物についてきた、というふうに読み取れる老夫婦が、カレールーの売り場で足を止めていた。旦那さんは上着のポケットに手を入れたまま、奥さんの後ろで何をするでもなく何を見るでもなく、ただうろうろと立っている。と、奥さんがとあるカレールーを手に取りかごに入れた。さらにもうひとつ、別のカレールーを吟味して手に取ろうとしたその時、静かに揺れる置き物のような旦那さんが口を開いた。「おい、カレールーはもうかごに入れたじゃあないか」

それは、奥さんのうっかりを笑いながら咎める、という感じの口調だったが、「あらまあ(笑)」とはならなかった。旦那さんには一瞥もくれず、ふたつめのカレールーをかごに入れてその場から立ち去る奥さんの口が高速で動き出す!

「はああまったくなにもわかってないくせにえらそうになにをおっしゃってるんでしょうねこのひとは カレールーは2種類いれたほうが味に深みがでておいしくなるんですよ あーばからしいばからしいなんにもわかってない もう40年もこうしてつくったカレーを食べさせているのにわかりもしない気づきもしないんですからねえわざわざ2種類いれていたのがほんとうにばからしくてしょうがないですよ私は まあ自分も食べるんですからね今日も2種類使いますけどねえ あーばからしいばからしい それにつけてもばからしい‥‥」

それは、小さいけれど妙にはっきりと聞こえる幻聴のような声で、しばらくのあいだ止まることがなかった。口調こそ丁寧だが凄まじい手数。狂気すら感じる独り言。ただ、奥さんの不満が爆発した瞬間のように思える出来事ではあるが、それを聞いてしまった他人の僕ですら体が硬直してしまったというのに、旦那さんは相変わらずポケットに手を入れたまま静かに揺れていた。そうなると、これがこのご夫婦の通常運転という可能性も感じられる。世は並べて事もなし。明日は明日の風が吹くだろうし、今日吹いているのは昨日からの風でもある。さあ、スーパーへいこう。スーパーにはドラマがあるのだ。


あけましておめでとうございます。お正月ムードはやや落ち着いてきた頃かと思いますが、僕はまだお屠蘇気分です。年中酔っ払っている奴にかぎって「お正月だからお屠蘇気分なんだ」なんてことを言うんですよね。幸せですね。今年のお屠蘇は洋酒が中心で、実家でワインが3本あきました。トラディショナルなお屠蘇はこれからです。お付き合いください。皆様、今年も一年、どうぞよろしくお願いいたします。


2022年11月 - 記

十一月、了。この一ヶ月のトピックスはというと、やはり「我が家の焼き鳥ムーヴメント、再来」これを挙げなければいけません。実は順調に背が伸びているマイドーターの手がコンロまわり届くようになり、興味を持ち出したこともあって、TK鉄板の使用を控えていたんですよね。久しぶりの出番。せっかくだからとタレを仕込み直してみたところ、これがかなり出来がよくて。テンションがあがったのでついでに塩の調合も変えてみる。鉄板で焼きやすい部位とそうでないのを分けて、そうでないのは無理して串を打たない。下拵えも見直し。特に砂ずりを本体と柔らかいむにむにと硬い銀皮の三つに切り分けて、本体は本体、むにはむにで串打ちし、銀皮は湯引きして梅酢和えにしてみたのは当たりでした。楽しいなあ。僕が料理をするようになったのは母親と、その母親が愛読していたクッキングパパの影響だと思うけど、そういう直接的なきっかけだけで今も台所に立っているわけでは、恐らくないんですよね。台所に立って料理をすることで埋まっていることがある。つまりそうすることで埋まる穴ぼこがある。じゃあその穴ぼこって何かしら?いつからあいてんだっけ?とか考えていくと、単純に好きでやっているってわけじゃなさそうだし、だから好きでいられるんだろうとも思いますが、こうして焼き鳥の細工を流流して、仕上げを御覧じろ〜ってやってるのがほんとに楽しくなってるんで、生きてみると人生おもしろいなあってことですね。


2022年10月 - 記

自分の故郷へ里帰り。ちょうど一年ぶり。町の様子はあまり変わらない。小さい頃からあった古い旅館が次々と取り壊されて、そこに「なんとか使いみちを考えてみたんですが‥‥」みたいな感じの建物が出来て、ちょっとちぐはぐになっていても、こみこみで町の様子はあまり変わらない。以前はなにかと「変わったなあ」と口にしていた気がするが、思えばそれはそう言いたかっただけだろう。まったく若さってやつぁね。そして今、帰るたびに「変わったなあ」と思うのは唯一、親の老いだけ。ちゃんと、空いた一年分老いている。ああ、もう。自分の家族ができたというのになあ。あとどれぐらい関われるだろう。


2022年9月 - 記

ハードな十日ばかりを過ごして疲れに疲れたウィークエンド。「命が脅かされる」と久々に恐怖したクライアントと縁が切れ、取り組んできた仕事も消え、安堵と焦燥でむちゃくちゃ辛いチャーハンをつくってしまいほろほろ笑うしかなかったのが九日前。「急になにルギーがはじまったのか」というぐらいのエンドレスくしゃみでへとへとになったのが七日前。翌日は「染み抜き」の配信があり、サコーンズのふたりと夜更けまで二合徳利を転がして遊んだ。その二日酔いで布団ロールインザデイだった五日前。次の日はファッキンチキン?みたいな名前の店でまた飲酒。二日酔いの朝を迎えてその夜はMeleからの打ち上げでまたサコーンズと飲酒。正確にはもっと沢山人がいたけど。オータムスのお二人となんかいろいろお話出来ておもしろかったな。その翌日はパラダイスにhaloを観に行って、その後またまたサコーンズと飲酒。今週サコーンズと呑んだ酒は何ガロンになるのだろう?と思うぐらいは呑んだはずだが、めちゃくちゃ一緒にいたなあという気もそんなにしてない。僕らの話はまだまだ尽きないし、僕らの記憶は次々こぼれる。だからそういう気持ちになるのだろうなあ。たのしいなあ。しあわせだなあ。


僕は味噌汁の出汁は煮干しでとるのですが、最近は野菜くず(ヘタとかカワとか)を取っておいていっしょに煮出すようにしています。以前はそういうのはまとめてきんぴらにしていたんですけども、この使い方もありだなあと思いまして。味噌汁がおいしく決まったり、お米がいい具合に炊けたりすると気分いいですよね。むちゃくちゃ所帯じみたことを書きましたが、こういう話題を選ぶときの僕は気が触れています。


2022年5月 - 記

「この先(将来)どうしようか」と考えてみたときに、「あ、そうか、いまが以前思っていた将来なのか」とわかってぎょっとしたことがある。それは何歳のことだったか忘れたが、おそらくこの先もそのようにして、いつのまにか増えていく白髪だとか、ぐらつきはじめる前歯だとか、増える皺に下がる乳首というような、自分が少しずつこの人生に馴染んでいく過程をつぶさには意識できずに、ある日またぎょっとして「おや、そろそろ駄目っぽいな」と諦める頃合いまで残りの将来を捲られていくわけだ。それも、きちんと1ページずつ捲ってくれるのでなく、ひょいと摘んだページの束をどさっと送られていたりなんかするんだろう。その束のなかに、石原さとみといい仲になるくだりとか混ざってたんじゃないかしら。頼んますよ、これからはきちんと。この目でみたいこと、まだたくさんあるんだから。ここにきてばんばん増えてんだから。


ゴールデンウィークのある日、朝からお墓参りをして、昼はtsumaの実家の庭での炭火バーベキューに参加。夜は市村くんの家で岡山のお酒をご馳走になるという、とてもいい日がありました。5月はバーベキューにもってこいですよね。晴れていても暑さは穏やかで、風も気持ちいい。庭の草引きをさせてもらったけど、汗が出て、顔を洗えば塩辛くて、気持ちがよかったなあ。ゴールデンウィークに入る前、子どもの体調が少しよくなくて心配で、予定を立てるような心の余裕もなく連休に入ったけど、お医者さんに問題なしとお墨付きをもらって一気に心が晴れて周囲に目を向けて見れば、雨続きと聞いていたゴールデンウィークの空はいい陽気をしていて「なんだあ、そうかあ!」って大きな声が出ました。すっからかんで始まった連休だけど、けっきょくそれっぽいことをいろいろさせて貰えて、幸せもんですわ。


2022年4月 - 記

たまねぎが高い。これは辛い。たまねぎを気軽に買えないというのは存外に庶民を苦しめるもので、台所の隅で2、3個ぐらい常にころころしていて欲しいのがたまねぎなのだから、この状況は実に心細い。きっと大変なことになっているのだろうと思うけど、お願いします。落ち着きますように。


2022年3月 - 記

規制のような顔をしていた呼びかけが全国一斉に解除ってことで、なんだか景気がいいような気になりますが、ではではこっからぱーっといきましょうというのもなんだか、そういう訳にはいかないよねって。生活に食い込んだ影響までまとめて解除してくれるわけじゃないしさ。フニオチールはいずこ。飲み屋さんが開いてるのは嬉しいけどね。お酒には弱い。弱くて結構。


なんとまあ、えらいもんで明けましておめでとうですよ。ここでは。もう3月だというのに。マーチに待った春が来るというのに。実際そこまで待った感じはないけど。まあそれよりも毎日落ち着かないです。落ち着かないからとにかく調べることを始めると、「そうだったのか」と、わかったことが急に増え始めますが、これはこれでよくないですよね。いまは探すまでもなく関連した話がたくさん出てきます。こういう情勢になる前だったらどうだったのでしょう。もうちょっと探さないとそれらしい情報は見つからなかったのかも。いつのまにか自分がすり替わっているような感覚に陥ることは避けたいので、わからないことが多い状態はそのままで保っておきたいと思っています。知ろうとすることはやめないままで、慎重に、丁寧に、内省しながら全身でいまを記憶して考えておきたい、と。たとえばですが、自分の子どもに、その友達に、将来この時のことを聞かれることがあるとして、この時に大人だった人としての話を尋ねられることがあるとして、あまりむにゃむにゃした話にならないようにしたいものだ。とか、まあ考えるんですよ。うん。危機管理の意識としては呑気なもんでしょうけど。他方、それを考えることに囚われ過ぎると日々の暮らしに手がつかなくなるから、目にすると心が騒めいて落ち着かないある地域の今日のニュースと自分の今日とを切り離し、仕事を、家事を、育児をする。そうしないとどうしようもないもんねと理解する自分を自分でかち割りたくなる衝動にも駆られながら、去年漬けたらっきょうの残りをかじりながらお酒を含み、これを書いています。ライブ予定を更新しにきただけだったのですが。


2021年12月 - 記

こんなところにひっそり書いてないでTwitterか何かにのっけた方がよかろうけど、先月購入したTK鍋(鋼の鍋)の具合がすこぶるよいです。既に購入済みのTK鉄板(鋼の鉄板)との合体技で、昨晩はキングサーモンの切り身がメタモルフォーゼしました。メタモルフォーゼって何だっけ?でもなんかすんごくなった感じなので語感的に合ってる。すんげーです。


今シーズンの初おでんを炊いた。おでんの下拵えはやり甲斐の塊で、丁寧に仕込んだぶん結果がしっかり変わってくるので没頭できる。するとだんだん心がほぐれる。そして食事の時間が遅くなる。ぷんすかマイドーター怒りのはらへり声があがって我に返り、急いでおでんを提供すると「これは飲み物です」的な勢いで嚥下されてしまった。もうちょい味わって。いや、これはとーちゃんがわるいね。ごめん。大鍋一杯に出来たからしばらくは朝晩おでんが続くけど、そのぶん提供がはやいよ。とんとんだお。


2021年7月 - 記

繰り言になるけど、ライブが出来るのがうれしい。練習がおもしろくなって曲にも変化が出て、思いつく「こういうふうにやったらどうだろう」をやってみたくってしょうがないから、いまほんとうにライブ出来るのがうれしい。こないだのロック喫茶ファンダンゴ一周年の日も、サイコーだったなあ。


2021年6月 - 記

いつのまにか次々と規制が乱発されることが当たり前になっていて、「どう規制するか(されるか)」その内容だけが注目されるようになっていることがどうにも怖い。新型のウイルスとは質が違う、けど同等以上に恐ろしいことがじわじわと迫ってきている気がして。経済的自由権への抵触の議論はどうなったんだろう。もう抵触しないよってことで結論は出たって感じなんだろうか。なんだかんだのうちにそのあたりの話が掏り替わってしまったようにも思うんだけど。電波メディアの成立後、こういう摺り替えが行われるのは統制する側にとっての常套手段なのだろうけど、それにしても怖いよ。罰則付きの法律なんてさすがに違憲だろうと思ったけど、ちがうのかなあ。そういう疑問を行動に起こしにくい環境まで整えられてしまって、従わない自由権を少しぐらいチラつかせないと奴さんたち好き勝手にあれもこれも規制だ規制だって統制社会モード一直線じゃないか冗談じゃないとも思うけど、締め付けることで自然発生する守らない層をてこにしてさらに統制力を強めるというのが狙いだろうかとも。あじゃらかもくれん、てけれっつのぱ。

これ以上市民同士の分断が深まるのは避けないと。そっちの流れは絶対によくない。監視し、敵視し合うことが加速するのがとにかくよくない。そういう状況は外から付け入られる隙にもなる。だからそれぞれの思想はどうあれ、異なる考え方を慮りながらお互いに対策を取りつつ暮らすということが自然にやれるように。ウイルス対策への在り方で思うのは、インフルエンザに対するのあの感じはけっこうよかったんだって今はわかる。それぞれのスタンスがあることが話し合われはするけど喧嘩になるほどじゃないというような。今回の感染症蔓延によって、生活が、人生がむちゃくちゃになってしまうことへの対策をしなければならないとするなら、感染予防と並行して考えておきたいことが沢山あるなあ。あわてないために。後悔もせんために。


毎晩夢をみている気がするけど、さいきんはちっとも覚えてないなあと思っていたら、つい今しがた、昨晩のを電撃的に思い出した。全体の流れはさっぱりだけど、何かしら紆余曲折あって、最終的にキタさんがBASTARD!を全巻もってうちに来てくれることになったのだった。待ってます、キタさん。


ついにわが家にもTK鉄板が。早速ぶあつい鮭と野菜を焼いてみたところ、評判以上にこれはすばらしいものですぞ。一生焼いていける。しあわせ。


2021年4月 - 記

ニュースとして流れてくる現実の多くにあたまを抱える一方で、そこらからあがってくる声の殆どにうまく共感できない。こりゃーしんどい。まいったまいったマイルチャンピオンシップ。


少し急ぎたくて「ようし、全力で走るぞ」と意気込んで足を動かしてみたが、まるで速度が出ない。昔のイメージの半分も出ていない。風を切る音が聞こえたじゃないか、あの頃は‥‥。と、このような悲しみを独りごつ体験がこの近年で幾つかあったものだが、このほど近所の公園を子どもと散歩中、ぶら下がり健康機のような遊具を目に留めてなにげなくぶら下がり、なにげなく懸垂が出来なくなっていることも知った。正確には順手で出来ず、逆手でなら一回。この一文を付け足す強がりがいっそう悲しみを誘うわけだが、中年にして娘が出来た身としてはあまり格好がつかないのもイヤだなと思い、トレーニングを開始してみている。新しいことがしたいけど。これだけはアンチエイジング。取り戻そう。イヤになるまでは。


サッポロ黒ラベルの★マーク入りジョッキとビールグラスをくださった知人がいる。こんなハイセンスかつ気が利いた贈り物をくださる知人がいることを、僕はほんとうに嬉しく思う。ただでさえマイホーム居酒屋(©正垣祐樹 オリジナルはマイルーム)を充実させんければやっとられんという日常を送らなければならないこのごろ、こういうアイテムがどれだけ心の乾きを癒すことか。ありがたいありがたい。ビールが幾らあっても足りない。焼きに焼いた餃子も足りない。そうして家人とテンションをあげている最中、パルチザンの扉が閉まる動画を観てしまい、泣いた。


「自分はだまされない」と思っている人ほど引っかかりやすい、という詐欺被害の調査結果があるという。この因果関係を考えてみると、おそらく詐欺被害にあった人はその加害者に対して「だまされた」と憤ることになるが、しかし実際はなんらかの話を見聞きするなどして「自分はだまされない」と思い込まされた瞬間からだまされはじめている、と考えた方がいいだろう。自分は事前知識を得て優位にたっている「知っている側」の人間だ、という理解が生まれたとき、もう心理上の罠には引っ掛かっているというわけだ。

どうして今さらこんな話を書いたかというと、テレビは信用出来ないからインターネット上で情報を得ている、という行為にも似たような落とし穴があるから、これを教訓として自分を律しないとダメだぞ、と改めて思うことが増えたからでした。「意識が高い」状態ほどだまされる時の深度は大きく、抜け出せなくなるから。


納豆蕎麦が好きで昔からよくつくるのだけど、蕎麦を食べ切ったあと、からまりきれなかった納豆がどうしてもおつゆといっしょに器に残る。この状態になると、さっきまでとてもおいしかった納豆が何故だか急に不味くなって、どうしてそうなるのかいつも不思議に思っています。


0時には眠くなって就寝し、7時に起きて活動開始。おい、これが俺か。まぁわるかないが、急激に変化出来過ぎていて以前の日々が少し恋しいぞ。そういやたばこもやめたんじゃないか。おいおい。ひげも。おーい。


入園式、そして初登園。園帽をかぶるとお姉さんみたいだ。給食を食べるなんて、ほんとにもう赤ちゃんじゃないんだね。これまでのことが、点滅する光が消えないよう祈り続けた日々が思い出されて、感慨の大渦潮に飲まれたとうちゃんはもうだめなの。おもしろいことにたくさん出会えますように。泣くこともたくさんあるだろうけど、楽しいこともたくさんありますように。お願いします。知らないところで大きくなり始めるんだと思うと遣り切れない寂しさでたまらなくなるけど、こちらもがんばりますから。もらった時間を大切に使って。


2021年3月 - 記

剣や魔法のファンタジーゾーンが舞台の夢から目が覚めた。してみると、さぁ布団から出てすぐに仕事をしようじゃないかという気持ちが溢れてくるではないか。こんなことはめったとないことだ。つい今しがたまで手から火を出したり大地を割ったりしていたのに、娑婆の空気を吸った途端にこれだ。現実は夢もチボーもない。

まぁボヤいていてもしようがないので顔を洗ってはたらくとしようか。なにしろめったとないことだ。こんな気持ちで目が覚めるのは。宝くじにでも当たったつもりで仕事に取り掛かろう。あー、そう考えたらつまらんくじに当たってもうたな。当たりたないなあ。こんなもん当たるぐらいならテッポー当たって死んだふり、労災もらってしばらく寝てたいなあ。そうや、そうしたら寝てるあいだに春が来るど。風がもっと温うなるからそうしたら外いこ。花が見たいが桜はまだかいな。酒を買うといてくれ。枕もとに小遣いも置いといてや。


2021年2月 - 記

前の更新が2月4日か。ずいぶん空いてしまったけど、2月もいろいろあったよ。たとえば2日に食べた節分の塩いわし、丸々とした胴体にたっぷりと脂がのって、たしか1匹100円ぐらいだったか。こんなにおいしいのにこの値段!ナンタルチア!それからの我が家に塩いわしブームを到来させる堂々のおいしさ。いわしを焼く匂いがすっかり壁に馴染みました。とれねー

しかしね、安いのはそりゃありがたいけど、3日前ぐらいか。1匹あたり12円ぐらいにまで値が下がっていて。そこまでになるともうね、喜べない。買いますよ。買いましょうみなさん。めちゃくちゃおいしいんだから。いただきます!


市村マサミのレコ発。ムステインズの初ライブ。どちらも素晴らしくて、それぞれに肌が粟立つ夜でした。今月はライブ出演が2回。一時毎に死んでいる自分を想えば、あと何度こういう機会があるかわからない。より気合も入ろうというものです。いまはあまり積極的に動けないけど、筋トレ的なことは欠かさずやっておかないとね。落ち込んでばかりもいられないよ。


2021年1月 - 記

僕も今年で四十歳ですよ。

初めて店に行ったのがだいたい十年前。誰かに連れていって貰ったのがきっかけだったと思うけど、そのへんの出会いの話、何度か二人して思い出そうとしましたね。どんなんだったか。結局はっきりしませんでしたけどね。

それからすぐに前の会社を辞めて独立したから、職場が自宅になってね。だからちょっと忙しくなると、誰とも会わず、一歩も外に出ないまま日が落ちて、深夜にようやくひと段落するって生活になる。そうしたら当然一杯やりたいし、誰かと喋りたくなるもんだから、遅い時には三時とか四時からでも店に行って、そんな時間から本日一杯目のビールを入れて貰って。「お疲れさまでーす」からゆるゆる喋り始めて、それから六時、七時と過ぎていく。そういうことが週に何度もね、ありましたね。ありがたかったなあ。

そもそも、飲み歩くという習慣自体がなかったんですよ、僕は。赤提灯一軒で済んでたし、元々バーってちょっと苦手でね。薄暗いし、強面の人が多いし。山奥育ちの田舎者に馴染める場所じゃないよってね。でも、あの店はそんなに薄暗くなくって、あなたも僕のそういうイメージとは違う感じがしたから。受け入れて貰えそうな気がしたんでしょうね。あの日を境に多くの友人が出来て、酒に変わって消えていく金も倍増しました。

音楽や漫画の知識がまったくかなわないのは仕方がないにしても、ファミコンイントロクイズでも負けたのはさすがに驚いたし、ショックでしたわ。落語だって、最初は僕の方が「こういうのもありますよ」なんて教える側だったのに、すぐに嵌まって気が付いたら僕より断然詳しくなっていて。だから結局、どんな話も出来たんですよね。好きなミュージシャンや声優、噺家や作家が亡くなった夜もね、あなたとなら話が出来るから必ず僕は店に行く。そうすると「来ると思ってましたよ」なんて云って、二人になったら偲んでその人の話をしながら酒を飲んで。そればかりじゃない、大切な日も。妻にプロポーズをした夜も、婚姻届を出した夜も店に行きました。でも、そうですね、そういった特別な日のこともよく覚えているけれど、やっぱり仕事が終わった深夜に「すんませんな、こんな時間から」と、一杯目のビールを飲んだ山積みの夜がひどく懐かしい。

なんか、あれですね。時代ですよ。画像も動画も、メッセージの履歴もあるから、やっぱりまだ居るような気がする。その錯覚と自覚のあいだに気持ちが揺さぶられるのがどうも苦しくて。それなら顔を見ている方が気が落ち着くなあということが昨日わかったので、明日も会いに行きます。

覚悟はしていたつもりでしたよ。近々、こうなってしまう予感もありました。だけど、めちゃくちゃこたえた。こんなにこたえるとは思ってなかった。それで改めて、どれだけ長い時間を共にさせて貰っていたかがわかりました。本当にお疲れさまでした。長かった闘病生活を思えばゆっくり休んで欲しい。ただ、やっぱり寂しいですよ。どうしても。今後、長過ぎる夜をすっ飛ばして朝を迎えたいとき、どこに行きゃいいんですか。なんつって。僕の人生はあなたに出会えてよかった。万感の思いを込めて、ありがとう御座いました。合掌


先日のこと。空になって潰したペットボトルを遊び道具にするのが好きなマイドーター(1歳)が、なんと! 遊ぶことなくごみ箱に入れてみせた。しかもペットボトル用のごみ箱に。「すごいやないか!」「めちゃくちゃすごいやないか!」。語彙力を完全に失うほどの驚きと感動を与えてくれたマイドーターはそれだけに留まらず、なんと! その足で今度は僕のiPhone 11proをおなじごみ箱に入れてみせてくれたのだった。おい、proやど。


起き抜け、体操代わりに風呂の壁と床をこすり、昼まではたらきご飯をつくっておいて、私はゴヤクラで外食させてもらう。これだけは定期的にたべたい、唯一無二のおいし過ぎるめし。晴天、足の向くまま気の向くまま、コートにジャケット、ベストにネクタイ、大きなかぶとたくさんのほたてを連れて帰宅。夜まではたらいて、ご飯をつくって家族と食べ、そろそろ閉店といきたい。さっきベランダからビールを取ってきたところです。


閉店資金と再開業資金を援助してくれる、そういうコースというか、選択肢でしょうか。そういうのがあってもいいんじゃないかと思いました。もちろん、それを選ばなくてもよくて、あくまで選択肢として。あったらあったで起こる問題があるのでしょうけどね。ただ、身近なところからも息も絶え絶えな声が聞こえてきて、そういう選択肢でもあったらと思うような話がありましてね。素人の浅知恵というものでしょうが、そういうことを考えはじめてしまうのもしゃあないやおまへんか。


あれしてこれしての年末年始。ようやくひと区切りと思って気付けばもう1月も10日になっており、どうも間の抜けたタイミングですが、みなさま本年もよろしくお願い申し上げます。年が改まっても引き続きのことは引き続きで、重たい幕開けではありますが、考えて考えて、自分に何度も問い掛けて、慎重に、懸命に暮らし、ひ弱な生き物のままで生き抜けますように。


2020年12月 - 記

前の記録から日が経ってしまった。師走なんだからそういうこともあるよね? 慌ただしいからさ。と、屁をこくような言い訳をかます。クリスマスにはローストチキンを焼いた。これはどうしてもやりたかったので、完遂出来てうれしい。今日は黒豆を炊いた。この2020年のことを思うと、縁起物のおせち料理もやっとこうという気になった。去年もそうだったが。人生は僕の自由にはならないと、そう思い知るいくつかの経験が今迄になかった思いを僕に与えている。感謝というのは、こういうふうにやるものだったのかもしれない。


「今年の汚れ、今年の内に」なんて言いますよね。だから歯医者に行って来ました。ちょくちょくケアに行かなきゃよくないことになる、と、わかっちゃいるけど足が向かなかった歯医者。そういう“ずぼら溜まり”に水を流すのも、新たな年になる前にやっておこうってわけです。えらいなあ。

にしても、ずぼらの代償たる歯肉の腫れをしっかり見せられてしょんぼりしているところに、「カビ生えとるよ」なんて言われて、(歯ぁ?歯にカビなんて、そんな馬鹿な)と、その瞬間は思いましたけど、ミラーinミラーで普段見られない前歯の裏側を見せられたら、「あ歯歯歯!生えてんじゃん(笑)」ってなもんで、来年からはちゃんと通うぞ!と気持ちを新たにしたのでした。ずぼら、駄目。舌苔(ぜったい)!


朝起きて、自分はなにもしていないのに大鍋いっぱいにおでんが出来てたらおどろくじゃないですか。妖精さんかな?ちがうね。妻だよ! やっぱり生まれも育ちも大阪だと練り物のチョイスが渋いや。バリエーションも豊富で見たこともない練り物がいっぱい。なにこの玉ねぎ中心の練り物‥‥ って、おおおい!鍋の底からさらったら、蛸足まで出てきたやないけ! うそやん、やわらけぇ。すげぇやわらけぇんですけど。なにこれどうやってんの?


2020年11月 - 記

日本シリーズが放映されていたり、甲本ヒロトが出演?していたりと、どうもテレビが盛り上がっているみたい。うちではテレビは娘の為のものになっているので、そういったテレビのことを知らずに過ごしており、専ら手遊びソングや子ども向け番組を流すのだけど、お気に入りなのはテレ東系列でやってる「シナぷしゅ」という番組。民放が制作している子ども向け番組で、NHK教育テレビでやっているのとはちょっと毛色が違って面白いです。名取祐一郎さんの切り絵アニメが特に好き。僕らも娘も。


趣味であり実益もある習慣のひとつとして、月に二度ほど出汁をひいています。一度に2〜3リットルひいて、しっかり密閉出来るガラスの容器に移して冷凍しておき、必要に応じて使うのですが、この出汁を“ひく”って言い方、好きなんですよね。鶏ガラやブイヨンなど、大概の出汁は“とる”って言い方をしますけど、昆布と鰹節の場合にはわざわざ“ひく”って言い方が当てられていて、ぐつぐつ煮出すわけではないからかそれがしっくりきます。綺麗に嵌まり過ぎていて人に話すときに口にするのがこっ恥ずかしいぐらい。何を気取ってやがんだってなもんです。ひきますけどね、それでも。しっくりくるから。


普段からある物事に対してよく調べ、考えていると自負している人が、そうでないと感じた人に対して「よく調べてみて欲しい、考えてみて欲しい」という勧めをするのは自然なことだと思う。ただ、同時に「よく調べた上で考えれば、自分と同じ結論に達するはずだ」と信じている場合が幾らかはあって、実際にそういう状況に直面したこともあるのだけど、これらを分けることが難しいのもまた自然なことのようです。僕は「他人に対する期待値が低い」と責められたり褒められたりしてきているのだけど、そういうところがあるのだとしたらそれを上手に使って、考えをまとめた先にただ自分だけを戒めるということがもっと当たり前に出来たらと思います。


大枠で話が合うなあと思っていても、細かいところまで摺り合わせようとするとやはり合わない。誰とも合わない。最近はそういうことをよく実感しています。他人とぶつかりやすい問題に対する考えを曖昧にすることで自分の考えを成立させていた以前に比べ、人生の輪郭がくっきりしてきたことが発言内容に影響しているのだろうなと感じますが、「合う・合わない」というのではなく、「合わせあっていい話になる」ということが出来る友人の存在をよりありがたく感じられてもいるので、こうして僕はやっていこうと思いました。やわらかいけど芯があるという、あれです。


アンチョビってチョビっとずつしか使わないから出来たら瓶詰めのが欲しいんだけど、よくあるのは缶詰めなんだよなあ。


毎晩鍋でいい。いや、鍋がいい。そう思うぐらいには冷え込んできました。熱燗が解禁された我が家では、ついに暖房器具もお出まし。加湿器も出さなきゃなあ。事務所の忘年会はどうしようかしら。なんて考えていると、秋以上に感慨が深まる。年の瀬かー。


DAISOに売っているというバナナケース(バナナを一本持ち運ぶ為の入れ物。子を連れた外出時に使いたい)を求めに、近辺で最も新しく大きなDAISOに足を運んだ。ありそうな売り場の棚の前に来ては、上から下までじっくり見ながら横歩きで身体を滑らせる。「そういえば電流イライラ棒というのがあったな」などと昔のことを思い出す動きで入念に探すも、どこにもない。バナナを入れるケースなので、バナナ型で黄色い見た目をしており、遠目からでもすぐわかるはずなのだが、ない。ということは、ないのだろう。ちぇ。そう思い、あきらめて店を出ようと1Fに降りて来たその時、視界に捉えた。レジの近くの棚だ。遠目からでもわかるぞ。まちがいない、あるじゃないか。やった!つかつかと早歩きで近づき、手に取る。バナナ型で黄色い見た目をしている、うん、これはバナナだ。


2020年10月 - 記

自分の精神が未熟だと感じることがいろんな場面で出て来る。いつか完熟出来るのだろうか。そもそも精神が完熟した状態というのは、制御が完璧で一切の乱れがないことなのか、あるいは制御などという意識自体が完全に消え去っているところまでいくのか。後者だった場合、それは感情の機微まで失いそうでちょっと怖いから、その手前で止めておくのがよさそうだ。温玉ぐらいだとまだゆるいから、煮玉子ぐらいか。そうだ、押し入れにカップヌードルのストックがあったな。赤色のスタンダードなヤツ。深夜に思い出すもんじゃないが、煮玉子のせいで、ああ、乱れてきた。精神。

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10月29日木曜日、本日20時より《 報道・談笑・歌謡ショー「染み抜き」》の第四回となる配信がございます。詳しくはすぐ下の「活動予定」をご覧ください。音声のみの配信なので、何かをしながらでも聴けますので、ぜひぜひ。


大阪市を廃止して特別区を設置することについての住民投票には、反対票を投じるつもりです。こんなに嫌な投票は初めてのことで、もしこんなことが始まると決まってしまったらしばらく気持ちが塞いでしまいそうで、せめて明言をしておこうと思いました。

ちょくちょく行っていた近所のホルモン屋の店内の壁が打ちっぱなしコンクリートに変わっていて、これはどうもイメチェンとかではなさそうで、つまりその、閉店なのかしら。そんなあ‥‥


今年の初燗を慣行。家で、のね。僕にとっての家酒の軸、菊正宗上撰本醸造からやはり始めようかと酒屋の棚を優しく眺めると、少し気になる酒が。糀が2倍で度数が抑えめ。ほう。改めて容器の表記を厳しく睨み付けると40〜50℃の熱燗によき、とな。ほっほう。その夜の晩飯の主役は妻リクでオムライスだったので、食べ終わってからの晩酌。さすがに合わんからね。大きい薬缶に60℃のお湯を作って、二合徳利を浸けておく。洗い物を済ませて頃合いよろしく、ごくり。おお、うまい おほー ぬくいなー。これでこの冬も怖いもん無しぞ。くだんの酒は成る程看板に偽りなく、熱燗によきでした。冷めてくるとちょっと気になるところもあったけど、これは当たり。またお世話になるなー。あれ?なんだっけ。ああ、そうそう。使った二合徳利は僕のロゴ入りのやつなんです。この季節に売れないとしょうがないから、よろしくね。あー、通販やんなきゃ。


昨年の夏に購入した中華鍋が、いよいよ手に馴染んできた。揚げ物の鍋としても使いたかったので、1.6mmの厚めの物を購入したのだけど、それだけに重く、当初は炒め物をするにも多少のえっちらおっちら感が出てしまっていて。それが今や、炒飯とて自在。貴様どこでその修行を。ふふふ。一年と三ヶ月掛かったけど、こうやって道具がじわじわと手に馴染んでくる感覚、たまらんですよね。


「子どもの成長について具に記しておき、それを二十歳になった時などに渡す」という使い方をする為の帳面がある。体重や首がすわった日にちなど、単純な数字を記入する欄もあるが、誕生したときの話や、名前を決めるまでの話など、ストーリー仕立てにして記入する欄もあってなかなか楽しい。漠然としがちな想いを言語化し、文章にするのは大変だけど、やりがいがある。

さて、そのなかに「はじめて話したことば」という欄があって、これが悩ましかった。ことばらしいことばはまだ話していないけど、声に出して様々な発音はしているので、どういう基準でもって「いまのがはじめてのことば」とすべきだろうか。

思いついたのがiPhoneの音声入力だ。つまり、「少し複雑な発音をしているな」と感じたとき、すぐに音声入力モードを始める。「あー」とか「ぱーぱぱぱ」のような単純な発音だとまったく反応しないので、この音声入力モードがことばだと認識してなにか入力されたら、それを「はじめてのことば」とするというもの。この方式を思いついて、実践しながら過ぎること数ヶ月。くだんのはじめてのことばの欄には「MORG」と記入してある。だってそう入力されたんだもの。僕もびっくりした。


3日、パルチザンでささきたかしさんとのライブがあった。やっぱりパルチザンはいい。変化するならここだぜって感じ。かのピカチュウもパルチザンに足を踏み入れたら、帰る頃にはライチュウですよ。次は来月の28日、また酒ネコ会がある。演奏して歌えるのがやはり嬉しい。

そして、もう随分前からパルチザンでライブをした後は必ずプカプカに寄っていたので、今夜もなんだか物足りない感じで帰宅。寄りたいぜ、プカに。


世間を賑わせていた半沢直樹が最終回を迎え、暦は10月になった。その半沢フィーバーを捉えて、「この10月は上司に反抗していこう。オクトバですが部長、というふうに」みたいなことをTwitterに投稿したのだが、実によく出来た洒落じゃないかと我ながら思う。だけど、物心ついた頃からこちら、おもったよりも反応がない人生に肩まで浸かってきたので、これもそこそこの反応で終わるんだろうなと思っていたところ、そうなりました。どこがズレているのかなー


2020年9月 - 記

今年の始めから煙草を吸わないでいる。こんなに長くそうしているのは煙草を吸い始めた二十歳の頃以来になるので、そろそろからだにも何か変化が出て来るかな?と思うのだけど、なにもない。つい最近まで作業机の隅っこにアメリカンスピリットの箱が放置されていて、ふと気になったので持ち上げて振ってみたらコトコトと音がした。中を見ると10本ぐらい残っている。今年の始めから放置されていたはずなので、湿気って香りも抜けているかもしれないけど、勿体ないなと思ったので友人の市村くんにあげた。ついでにベランダの灰皿も処分した。なんというか、いろんな場面で影響が出ていない。まあ、万事こんな感じだなあと自己を顧みて頷いた。


ロック喫茶ファンダンゴでの生音ライブ、昨日終わってしまいまして。僕にとってはこれがひとつの分水嶺になる、というような。これまでの整理と、これからへの約束。大きな節目をつくるチャンスをもらったと、そう感じて取り組んできた日でした。これまでとちょっと違うなって、そう思ってもらえたんじゃないかと思いますが、どうだったでしょう。

歌い終わったあとのステージで、くらくらするからだを椅子に手をついて支えながら酸素を必死でやり取りしているとき、思い起こされた感覚がありました。これでもうちょっと、またよくなれそうです。ぜひぜひ、歌うところを観に来てください。よろしくお願いします。


馴染みの呑み屋を訪れると、大将が「今日入った冷やおろしが一本ありますよ」とおっしゃる。おっしゃられりゃ。嬉しいなあ!馬の首肉のタタキを頼んで、冷やおろしはおかわりしました。それが始まりでした。


九月にはいった。近所のスーパーに新物の秋刀魚が並ぶ。その姿や値段などからいろんなことを想う。食欲の秋ではあるが、食のことを考える秋でもあるのだ。

ことばというのは、世の中でよく使われれば使われるほど、辞書に書かれるような本来の意味とは違う意味を持たされるようになる。のみならず、ことばは使う人間個人の性格と使い方によってその意味が変質してしまうものでもある。おなじことばを軸に会話をしているはずでも、しばしば齟齬が生じるものだ。ことばとは、人類を動物界の成り上がり足らしめた発明であるとも言われる一方、それほど弱々しい道具でもある。しかし現状、それを用いてのコミュニケーションしか知らないのだから、よほど丁寧に扱う必要があるだろう。無意識に使っている道具ではあるが、だからといって簡単に「使いこなせている」とは思わない方がよいかもしれない。少なくともそう思考するのでなければ、他人と分かり合うことや、誰かを追い込まず納得させることなどはより「出来るはずがない」こととなり、圧力で以て屈服させる手段しか取れなくなる。

秋刀魚を通じて始まった考えごとの足跡を、一部可視化してみた。


2020年8月 - 記

夏はスイカバーで、九月はセプテンバー。賽の目に切った冬瓜を出汁で炊いて子の食卓に並べたところ、真っ先に手が伸び、連続して食べた。はじめての冬瓜だったけど、きっと好むだろうなあと思って拵えたので、それはそれは嬉しい。こういうことを日々繰り返しているのが最近の僕で、そうでない日々だったらもう少し塞ぎ込んでいたかもしれない、はじめての八月だった。幸福の前では誰もが凡庸になる。いや、なれると言うべきか。


家族のシチューをつくっていると、鍋の中から安心やら充足が団体でやって来ます。


ある書類を区役所の担当窓口に提出したいのだが、書面にはコロナ禍なので窓口の混雑を避けたいから郵送して欲しい、とある。了解だ。区役所の目と鼻の先にある郵便局に出掛けよう。到着だ。郵便局は混雑していたので、番号札でちいさな紙風船を折りながら気長に順番を待つ。お、呼ばれた。

私「これ、普通郵便でお願いします」
局員(宛先を見る)「すぐそこやけどええの?」
「は?」
「区役所、すぐそこやのに。届くの明日になるよ」
「ああ、いいんです。コロナ禍なので郵送して欲しいそうで」
「それな、どうせ休みたいだけよ。出勤する人員減らしたいねん」
「はー、そうですか」
(………)
「え、送ってくれないんですか?」
「送るよ!」

外に出る。暑い。さっきより数倍暑く感じる。はやく帰ろう。落ち着いて冷水を飲もう。


鮎を見かけると「まだ食べてないんだよな」と思う日々です。先月の終わりくらいまでは、鮎を見かけると「今日じゃないんだよな」と思う日々だったのだけど。冷蔵庫の中身との組合せ的に今日じゃない。鮎をやれる程の時間的余裕がないから今日じゃない。気分的に今日じゃない。様々な理由で巡りが合わず、まだ鮎を食べていない。秋まで楽しめるとはいえ、落ち鮎になるとまた味わいも風情も変わる。盛夏のうちに頂きたいな。鮎。今週末がいいかな。


我が家にとっての八月は、去年からちょっと特別だ。どちらかというとよくない方にだけど、だからこそ今年も八月が始まったということが感慨深く、去年の波瀾万丈ぶりを思い出してはほろりと笑い、今日の平穏を噛み締める。そんな過ごし方をすることになるだろうと思っていた。思っていたのにな。大切なひとたちが、逝ってしまったり、倒れてしまったり。やれることをやろう。ぜんぶだ。


2020年7月 - 記

以前、酒場で同席した人と話していたら小難しい流れになっちゃって、「多様性を認めようとしない奴は許せない」という台詞を聞くことになってしまった。「多様性を認めよう」という題目は、僕らみたいな動物にはなかなか困難なことのようだなぁと思いますが、個々の人生の体験によって、それぞれにどうしても受け入れられないことがあるのも自然なことだし、争いになり過ぎる前に落としどころとしての建て前が整うといいのだけど。極端なことにならないように。


状況が一変し、事態が悪化するにつけ、平時であれば言わずに済んでいたこと、向き合わなくてもよかったことなどが顕在化してくるようになる。それもこれも含めて平時だ、ということになるまでは、自分の内面に片付けていたものまでアウトプットせずにはいられないという日々が続くのだろうな。それをやり過ぎると、やたら攻撃性が高まるということだけじゃなく、過去からの自分を繰り返し反芻することで濃度が高まり、どんどん考え方が固定されていくという弊害もあるように思う。そっちへのワクチンは何かな。やっぱり会話だろうか。慎みながら気をつけながら、不謹シップに則り最小限にさせて貰うしかないかな。


ベランダで育てているトウガラシが結実したら、青いまま収穫してグリーンカレーを作ろう。そういう計画だったのだが、夏を堪えきれなくてつい乾燥の赤唐辛子で作ってしまった。ししとうとピーマンを沢山使います。これでも充分に美味しい。のだけど、やはりちょっと辛味と青臭みの関係が余所余所しいかな。そうするとやはり収穫は楽しみだ、ということになる。いいね。ともあれ、こいつを食べながらビールをやって、ぐっと夏を引き寄せることが出来ました。


仕事が行き詰まる。考えが煮詰まる。そうして焦っていると、何故かクラシックギターの1弦がひとりでに切れます。その「E〜!」という音を聴くと我に返り、落ち着きを取り戻すことが出来るのですが、このクラシックギターがうちに来てからもうすぐ10ヶ月。昨日ので三度目でした。おおけに。


「ちょっとした疑問」が、何処からかよく転がってくる世界だ。拾い上げて揉んでいると弾力が出て来るので、ボールみたいにして遊ぶ。それは楽しいから、面白いからやっているということではなく、無意識的に繰り返しているだけの、まあ、ただの癖だろう。

先日の配信(第二回染み抜き)は、よかった。問題と対策と準備したことがきちんと機能して。手応え分の結果も出てくれたし、気持ちのいい汗をかいてのビールというのも久しぶりで、実に美味かった。

「大袈裟にしない」というのは僕専用の戒めだけど、いまその意識がちょっと強めに出ていて、思うことがいちいち大袈裟になりたがるのを見張っている。問題の根っ子を探り当て、そこだけそっと摘んで小さく解決する。そんなふうに出来たらいい。そう思考しながら生きている。こういう文章になっている時点で、ほんとうはけっこう危ういのだけれど。


六月の染みの記に書いた、近所のスーパーに設置されている笹。七夕当日を迎えていよいよ短冊大盛況。なかでも目を引いたのは、去年の星に向けた「この笹のおかげで一年で彼女が出来て結婚も決まりました!」という、報告。

その短冊にご利益があるとでも思うのか、周囲の枝には特に短冊が密集しており「上の階の住人 どこかに引っ越して欲しい 静寂を取り戻したい」などと、内容も切羽詰まっていて見ているだけで息苦しい。

「げんかいだ!みちゃいられない」と、笹から目を反らした先には長机が置いてあり、そこには数が多過ぎて笹に吊るし切れない短冊たちが平積みになって夜空に呪詛を放っていて。

やめちまえ。こんなことはもうやめちまえ。


 ベランダにて、先月からプランターでトウガラシ(タカノツメ)の世話をしている。ちいさなポットでのハーブ類はいくつかあって、レッドバジルに、ローズマリー、それからノコギリコリアンダーと、水をやっておけばちょんちょんと採らせてくれるのだが、苗を植えて育てようというのはなかった。

 いざはじめようと思っても、なにしろまずは道具が足りないわけだが、たとえばプランターということばは知っていても、いざ買いに行くとプランターと呼ばれているものはさまざまのようで、何用だとか何号だとか文字を読んでもちんぷんかんぷん。妙なところに穴があいていたりして、これはお手上げだと店員さんに来てもらうのだが。こういうところの店員さんにありがちなことで、すぐにひとりの園芸家のような顔付きになり、尋ねてもいないことまでひとりでに喋り出すから参ってしまう。

「トウガラシならおおきくてふかいのがいいけど、トマトもついでにどうですか。いいですよトマトは。」
 ぎらぎらした目であたりを見回すと、壁に立て掛かっている棒っきれを指差して、
「そうそう、あれがあればシシトウやピーマンもどんとこいですよ。どうですかシシトウやピーマンは。」

 こういう類いの人間に、「いえいえ、わたしはトウガラシさえ育てられればけっこうです」ということを伝えるのは、非常に困難なものだ。たいへんな時間をかけて、ほんとうに必要なものだけをショッピングカートに入れ、苗を植えるときにはこうしてくださいね、あれも忘れないようにくれぐれもかならず、と注意事項を並べ立てる園芸家(店員さん)の説明をあたまに叩き込み、無事にその場を去ることができた。そのおかげで、翌日には無事に苗をプランターに植えることができ、後日にはくれぐれもと注意されたことをふたつみっつすっぽかしていることに気づいた。あんまりいろいろいうからだ。


2020年6月 - 記

六月の晦日、夏越しの祓(はらえ)。昨年末はばたばたしていて掃除など満足に出来なかったので、ちょうどいい機会だからと朝から家中を掃除した。節目の行事や伝承などを参考にして、普段しないことをする。すると、そのままの自分だと気が付かないことにハッとしたり、時の流れに肌感が出たりして面白い。午後になって氏子である神社に出掛け、茅の輪のちいさいのを買い、うちに帰って手作りの神棚にあげてから玄関に設置。元々こういったことは嫌いじゃなかったけど、ちょっと前までは「ばかばかしいことだけどやっておくのもいいじゃない」というような、捻くれた青臭さをお尻にくっつけたままだった。今はなにも思わない。行動することも、考えることも、祈ることも、普通だ。事も無し。明日から半夏生。七十二候のなかでも取り分け好きなやつ。蛸を食べる習慣は関西だけだっけ?必ず買いに行こう。タウリンたっぷりの足を選ぼう。


クリームがついたフォークを床に落としてしまいやっちまった顔の家人に、「フォークは落ちてなんぼだからオッケー牧場」と声を掛けてみたのだが、オッケー牧場は余計だったかもしれない。


「家を継ぐ」というような形式的なことも大変だけど、「習慣を継ぐ」となるとそれよりまた少し複雑なところがある。

今年もこの時期の楽しみである朴葉寿司が実家から届いた。毎年、この梅雨の時期になると祖父が裏山から朴の葉を採ってきて、祖母が大きな丸桶で寿司を仕込む。僕が子どもの頃からそうで、大人になってからもそうだったが、数年前にその祖母が亡くなり、今年に入って祖父も亡くなった。だから今日届いたこの朴葉寿司は、親父が裏山から採ってきた朴の葉で、母が仕込んだ寿司だ。味や保存性の再現。そういう試行錯誤もあれば、そもそも家の人数が減っているなかで作り続けることが可能なのか、という問題もある。周囲からの無遠慮な期待も重圧となる中、それでも「やる」と決めた母の元から、こうして今年も朴葉寿司が届いているわけだ。

継ぐとか継がないとか呪いみたいなことを言っているのは馬鹿らしいと考えていたことも、それこそ馬鹿らしいことにちゃんとある。何の実感もない受け売りの反発をやっていたわけだけど、現在ならば捉え方に実感がある。そんな簡単な話じゃなかったのだ。梅雨入りすると思い出すこれが、「今年も届く」ってことは。

本当のことを言えば、「送るよ」と連絡があった段階でもう嬉しい。充分なのだが。無事に届いたことを知らせたら、「酢、きつくなかった💦?」と返事がきた。祖母がよく「遠くに送るのは別に分けて酢を強めに」と言っていたそうだ。そうだったのか。知らなかった。言われてみればちょっときつめに感じるかな?って塩梅で、めちゃくちゃおいしいのは変わらない。最初の一枚を食べながら、そういう感想を送った。


薬屋さんのレジの女性が、僕を見るなり口元を両手でおさえて「………!」と。声にならない声。憧れのスターが目の前に現れたかのような、或は生き別れていた兄弟に偶然再会したかのような。女性はそのまましばらく固まってしまい、待たされている僕の緊張はいや増すばかり。しかも考えられるシチュエーションがまるでないので、ちょっと怖くもある。このまま何を買わずに逃げ出してしまおうか、とも考え始めた頃、ようやく女性の声が聞けた。両手は口元をおさえたままだし、はっきりとした発声でもなかったから、完全に聞き取れたか自信はないけど、おそらく女性はこう云った。「そのTシャツ、どこで売ってますか………!」


サイコーだ。やっぱり居酒屋はいい。お酒を選んで刺身盛りから始めるお店の味。隅々まで気持ちが行き届いた空間。自分に課する自粛を少し緩めた久しぶりの居酒屋は、谷町「わらかし」でした。


「グリップが効いて動かないからおろしやすい大根おろし器」が、陳列されている。その前を、三十〜四十代と思しきご夫婦が通った。夫人がカートを押して先を進み、亭主が後から続く。と、亭主がくだんの大根おろし器に目を留め、夫人を呼び止めて云った。「おい、これ買ったらどうだ?」と。振り返った夫人はすでに不機嫌な顔をしており、何故かと問う。亭主は、「こないだも大根をおろすの大変そうにしていただろう。これがあれば楽におろせるんじゃないか」と、少し微笑みを混ぜて答えた。(あ、それはいけない)と僕は思うが、夫人はやはり大木の幹のような溜め息に混ぜて「いらん」と最小限の声を発し、再び前を向き進んで行く。亭主の「おい、どうしてだ」という声は、実情以上に追いつけない。


昨晩立ち寄った難波Meleのバー営業は、ホールに大きなテントが張ってあり、キャンプ用具が設営され、その脇ではPAスタッフのアツオ君が出汁巻きを丁寧に焼いてくれるという奇天烈な空間でした。なんと楽しい。きっちり酔うてにやけながら帰るのよ。そりゃ嬉しいって。


近所のスーパーの入口に、笹。脇のテーブルには短冊と何色かのマジックが置いてある。そうか、もうすぐ七夕だ。こんなご時世、そういうことを思い出すだけでも少し嬉しくなる。だけど、飾られている短冊にまだ覚えたてと思しき字で「コロナがなくなりますように」なんて書かれてあると、おっさんの胸は苦しくなります。おなじような覚えたての字で「おかねもちになりたい」と書いてあるのも、ちゃんとあったけど。ちゃんとあった、という感想の持ち方がもう、おっさんのエゴかもしれないが。


誹謗中傷と批判とはまるで異なる性質のものだけど、顕在化した問題に対してひとまずの答えを出す為、引き合いに出されたのだろうか。誹謗中傷は駄目だが、批判ならばよい。と、そういう話にもなっているようだけど、直接的に傷つけるのでなく、逃げ場を無くすほど精神的に追いつめるという効果が生じるのは、むしろ不特定多数の人からそれなりの体裁をした批判が殺到した時では?ということもあり得る。長年WEB関係で仕事をしてきて、まるで考えてこなかった問題の類いではないから、何処か一箇所を変えればそれで解決に向かう、というような話ではないということだけがわかっていて、考えに進歩がないこと夥しい。対策案がまるでない訳ではないが、当然ながら実行は困難。ふー。


金正恩委員長をニュース映像でみていたら、「おや?おでこが終わっているのに、なかなか顔が終わらないな」というような違和感を覚えた。顔を真正面から見た時、だいたいの人はおでこが終了した時点でほぼ顔の輪郭にたどり着くことになると思うのだが、委員長の場合はおでこが終わってもまだちょっと顔がある。そんな感じ。


腰が抜けるほどおどろいたり、後ろにひっくり返りそうになるのをどうにかこらえたり。それぐらいの衝撃が、生活の中にあるのはむしろ望ましい。今日、洗面台を掃除してくれていた家人が、当たり前のように蛇口のあたまを掴んで引っ張った。すると、蛇口の首がするすると伸び、鎌首をもたげて汚れを流し始めたではないか。衝撃のあまり背後で声をあげた私に気付き、「え?まさか」と、家人は云った。この家に住んで、そろそろ一年になる。


結構な雨降りの中、スーパーへ。肩と足下を濡らしながら「やれやれ、梅雨まっただ中だな」などと考えていたら、脳内の買い物リストに入れていためんつゆを買い忘れた。どうして席がひとつしかないのだ。


アジのぜいごを取るときは、包丁の向きが少し不安定というか、危なげになるので、「ぜいご、ぜいご、ぜいご」と掛け声をしながら丁寧に包丁を動かして、慎重に取り除くようにしています。


家人の実家で採れたいんげん豆が大量に届いた。そのいんげん豆を吟味しながら「どしどし食べよう。いんげん食べたら賢くなるから」と私が云うと、「そうなの?」と家人が返したので、(しめた)とばかりに「おう。いんげんは考える葦である、と云うじゃないか」というふうに締めた。ところが家人がきょとんとしている。これは、私が何かくだらないことを云ったということはわかるが、その何かがわからない。そういう時の顔だ。私はすぐに頭を働かせて失敗の原因を探る。そして、ある可能性に思い至り、「いんげんは考える葦である、と云うじゃあないか」と、重ねた。原因は恐らく発音。一度目は主役たるいんげん豆を尊重して、発音を「いんげん」に寄せたのだが、これがよくなかった。実際は「にんげん」のイントネーションに寄せないとそもそもの意図が伝わらない。この判断は正しく、家人は破顔一笑。(よし!)と気を良くした私がさらに何か云う前に、「茄子と万願寺もあるけど?」と付け足して私を黙らせるのでした。お上手。


とにかく何にでも酸味と辛味を効かせたくなってきたら、梅雨入りの兆しです。いま我が家にはしっかりしたレモングラスが大量にあって、湿気が錠前だとすると、これが鍵になるでしょう。


半額のシールが貼られたお惣菜を「ちょうど食べたかったもの」だと瞬時に思い込める詠唱不要のパッシブスキルはけっこうみんな持っていると思うけど、スキルポイントを振り直せるときがきたら、次は取らないだろうなあ。今なら基礎ステでなんとかなるもんなあ。


わけあって、野菜の皮とか種とか繊維なんかをつまみに酒を飲むことが増えたのですが、まず便通がよくなりましたし、たとえば「きゅうりの歯ごたえはほぼ皮」などという気付きもありました。なにより、この上なく煽られる自粛ムードで酒の味にもコクが出て、だらしなく溶け出す生活の元には戻らなそうなところが輝いてみえて、とても酔えます。


先日、この自粛暮らしで酒が前ほど飲めなくなり、すぐ酔いがまわってどうにもいかんという人が増えていると聞いた。本当かはわからないけど、僕もなんとなく実感がある。ただ、元々こんなもんだったのかもという疑問も、同時にある。ばかにつける自粛があって、長年のばかが覚めてしまったものだから、酒に対して真面目になっちゃって「酔っているかどうか」の査定が厳しくなっているのだとしたら。どうしよう。ほんと、缶ビール3本でだめだ。俺たちこれからどうなっちまうんだ。


2020年5月 - 記

近所のスーパーで買い物をしていると、ご夫婦か、或は恋人同士か、まぁとにかくカップルで来ていた男女のうちの男性の方が、「あのひとのがみのしょくぱんもってる!」と、乃が美の紙袋を下げたおばさんを指差して騒ぎ出した。余程のファンなのか、のがみだのがみだ!と、興奮の度合いはいや増すばかり。呆気にとられていると、女性の方と目が合ってしまった。(気まずい!)と僕が思うよりも早く、「うるさいでしょう?」と同意を求められてしまい、慌てて「はい」と応じてしまった僕は、まだまだ機転の効かないところがあります。


ダイソーで売っているパンチングボードの吸盤が売っていたら、買っといて欲しいんです。突然ですけどね? ボードそのものは勿論、引っ掛けるフックや棚なんかも買い揃っているんですが、吸盤だけがどこのダイソーにも売ってないんですよ。専用の吸盤がありましてね、10個入りのやつ。それがないと、どうにもならんのです。家の設計図も資材もインテリアの家具もばっちり揃えてあるのに、建てる土地がない! みたいなことになっとるんです。買い取りますから。倍額でいいんで。100円だし。お願いします。どなたか。


自粛モードなので、折角だからとセルフカットにチャレンジ。勢い任せの無茶な企画。仕上がりはと云うと、家人曰く「へんではない」。やはり私は天才的におもしろくないところがあるのだ。


所用で難波Meleに顔を出してきた。陣中見舞いに黒ラベルひと箱と焼き鳥を買うて。距離を空けながらで短い時間だけど、久しぶりにMeleの皆さんと話をしてビールを飲んだらもうほんとに楽しくて、すっかりご機嫌で帰宅。そしてはたと気が付いた。所用、済んでない。ビール飲んだだけ。ならばよし!


僕んちは今日も慌ただしくて家から出なかった。毎日が大切な日で、今にしなくなる所作が次々に入れ替わっていくのを追いかけて、おもしろいけどせつない、おもろせつない。笑ってばかりで、涙もよく出る。


ブームのズームにルームを作って友だち呼んで酒のんだ。


知育のおもちゃには音の出るものが多くありますが、ナイトモードが搭載されているといいですね。深夜にうっかりアンパンマンの鼻に触れてしまい、マーチが流れてしまいます。音量調節の機能も、付いてないですもんね。


なんだかなぁ。菜の花を買いそびれてしまって、梅雨がすぐそこです。うちでは毎年拵えている菜の花を使った料理があり、それは大切な春の楽しみなのですが。今年は縁がなかったのでしょうなぁ。


初夏ですが、塩サンマを買い、焼いて夕餉の菜に致しました。あきらめずに生きてゆこうと思います。


真空パックされているものでは、大豆の水煮をよく買います。


「目くそ鼻くそを笑う」ということわざがありますが、僕らはいま毎日尻くそを見て笑っています。それは喜びが多量に含まれた心からの笑顔で、おむつは宝箱のようです。


離乳食の食器も洗うようになったので、食器用洗剤を天然由来?的なものに変えてみました。使ってみると「天然由来のものを使っているぞ」という充実感がしっかりとあり、その感覚は主に泡立ちのよくなさから生まれます。


縁のある焼き鳥屋さんの仕入れ先である鶏肉専門の肉屋さんから、「こんな状況なので鶏もも肉を2枚ずつ配ります」ということが書いてあるチラシを貰った。もも肉を配るという行為と、その言葉の響き。すばらしい。琴線にフィーリングッドです。


うちにも布製のマスクが届いていました。このマスクにはよく耳にするあだ名がありますが、「うちではそういうのはよそうか」と家人に提案すると、その理由を聞いて頷いたような聞き流したようなゆるい間を取ったあと、「なるほど、そうだねー」と、どっちでもいいよというような軽さで同意してくれ、僕も「まぁ、そうだなー」と思ったので、助かるなぁという日々です。


「削除して30日以内に再ログインしたらそのまま復活出来る」ということを市村くんに教えてもらい、Twitterのアカウントをとりあえず削除した。がんばるために。